硝子をめぐる冒険
第26回「マイクロ化学チップ分析システム」
日本板硝子株式会社 情報電子カンパニー企画開発室
マイクロ化学チッププロジェクト プロジェクトリーダー
1. はじめに
新しい分析・計測技術が開発される背景には、常に「これが計りたい!」、「これを分析したい!」といった要求がある。新しい高性能な分析・計測技術は先端産業や先端科学で重要なツールとなる。例えば、DNAを高速に解析し、人の遺伝情報を明らかにしたいという要求が電気泳動キャピラリーシーケンサーの開発を促進し、要求を満たす技術が確立された。この技術で先進的な研究開発を行った米国がバイオ産業を創出し、市場を制してきた。このように時代の要求が現状の技術課題や問題を解決するためのドライビングフォースとして働き、「できなかったことをできるようにする」、「解らなかったことを解るようにする」ことができる新しい分析・計測技術が生まれてきた。このような観点から考えてみると、私たちが現在望んでいる、あるいは次世代に期待しているものとしては、「環境保護:超微量物質のオンサイト・リアルタイム分析・モニターシステム等」、「医療・診断:テーラーメイド医療、在宅診断等」、「健康モニター:在宅高度健康モニター等」、「食の安全管理:BSE検査、アレルゲン分析、残留農薬、遺伝子組み換えの有無等」、「社会の安全管理:生物化学兵器の影響の探査、薬物乱用の捜査等」などが挙げられる。これらに共通する分析化学的に重要な点は、多種多様な試料の多くの分析項目について高度な化学処理を必要とすることである。いずれも少量(試料・血液、等)で、かつ迅速に分析結果が得られることが期待されている。よって、少量多種の試料を同時に高速で化学処理できるマイクロ化学チップ分析・計測技術の開発が望まれる。
現在、日本板硝子では数十mm角のガラス基板上に化学単位操作を複数集積化したマイクロ化学チップ分析システムを東京大学・北森武彦教授のグループと共同開発に取り組んでいる。マイクロ化学チップ分析システムは、「地球環境保護」、「在宅高度医療診断」、「食品の安全」、「社会の安全」など多くの分野における分析・計測に対する要求に応えられるものと期待している。
2. マイクロ化学チップ分析システム
マイクロ化学チップ分析システムを実現するには、マイクロマシン技術を用いた微細加工技術を応用してマイクロ化学チップ(図1)を作製するだけでなく、流体制御、化学反応制御、高感度検出技術等の高度な技術を集積化しなければならない。そのためには微小空間における分子の振る舞いに注目し、それを生かした化学システムを構築する必要がある。分子の振る舞いに関与する液相微小空間の特徴としては、
- (1)空間が狭い→分子の拡散距離を短縮→反応時間の短縮。拡散反応時間は拡散距離の2乗に比例するので、空間を狭くすることで、反応時間を大幅に短縮できる。
- (2)比界面積が大きい→マイクロ流路内に性質の異なる2種類液体を導入し、互いの液相を接触させると比界面積の割合を大きく取れるので、マクロ空間で機械的に激しく攪拌した場合と同等の効果が得られる。
- (3)熱容量が小さい→急速な加熱、冷却が可能になる。
などが挙げられる。これ以外にも微小空間の持つ特徴があるが、この3つが微小空間の大きな特徴といえる。従って、このような特徴が利点となるような実験系はマイクロ化することで極めて効率的な化学システムとなる。図1にマイクロ化学チップ分析システムの模式図を示す。30x70mmのガラス基板に幅10〜200μm、深さ数十μmの微細流路を作製し、その流路に液体試料を導入して様々な化学操作を行う。このようなマイクロ化学チップでは、必要な試料量が極めて少量で済む。従来の数cmスケールの化学システムを100μmスケールにダウンサイズすると、大きさは1/100、分子拡散時間は1/10,000、試料量は1/1,000,000になる。通常行われているcmスケールの化学では、1時間という反応時間は珍しくないが、これがマイクロ化学チップシステムでは0.36秒、1tの試料量・廃液量が1gになり、劇的な高速化・少試料化が実現するだけでなく、化学プラントなどの化学工業技術としても革命的な新技術になる可能性がある。
図1.Integrated Chemistry Laboratoryの概念と実際に製作したマイクロチップの例
3. マイクロ化学チップ分析システムの検出法
マイクロ化学チップ分析システムでは試料量が少なくなるために、少量の分析対象を高感度に検出する超微量分析法が必須となる。例えば、10μmの立方体を考えると、体積は1pLである。1nano・mol/Lの濃度の溶液では、この1pLという空間に存在する溶質分子は濃度×体積、すなわち10-9mol x 10-12L=10-21molであり、溶質分子は数百分子となる。このような状況はマイクロ化学チップの世界ではそれほど珍しいことでもなく、微小領域に向かおうとしている化学研究と科学技術では、単一分子レベルの分析・計測技術は必須となる。
これまで、感度の点から、レーザー誘起蛍光法を応用した共焦点蛍光顕微鏡や近接場蛍光顕微鏡が主に用いられており、実際に単一分子測定が多数報告されている1)。しかし、蛍光法は原理的に測定対象が蛍光物質に限定されるために、汎用性という点が欠落している。これらの背景のもとに、東京大学の北森教授らは非蛍光性物質を単一分子レベルの感度で測定できる熱レンズ顕微鏡(図2)を独自に開発してきた。熱レンズ分光法自体は40年ほど前から知られている古い原理であるが、顕微鏡との組み合わせを実現できたのは北森教授らが最初であり、これは熱レンズ分光法に適した光学的な工夫に起因している。現在では、熱レンズ顕微鏡は微小空間の高感度かつ汎用測定ツールとして広く認知されてきている2)。日本板硝子株式会社では、測定ツールとしての普及を推進するために、小型化など実用化のための開発を行っている。図3に当社の独自技術であるSELFOC マイクロレンズと光ファイバーを用いて作製した超小型マイクロ化学チップ用熱レンズ分光検出機を示す。
図2.デスクトップ熱レンズ顕微鏡
図3.SELFOC マイクロレンズを用いた熱レンズ分光分析装置
4. まとめ
熱レンズ顕微鏡は非蛍光性の試料を単一分子レベルで定量できる顕微鏡であり、その汎用性を生かして幅広い分野で用いられてきている。現在は、暗視野法などの顕微鏡観察法と組み合わせることによって、単一分子カウンティングに向けた高感度化を進めている。また機能としても、紫外励起熱レンズ顕微鏡、フェムト秒時間分解熱レンズ顕微鏡、電気化学熱レンズ顕微鏡、円二色性熱レンズ顕微鏡など更なる高機能化に取り組んでおり、今後熱レンズ顕微鏡が広く用いられていくことを期待している。
私たちは、医療診断・健康診断(心筋梗塞予兆検診、ガン診断、アレルギー免疫分析等)、環境分析(シックハウス検査、土壌分析、環境水分析等)、食品分析(BSE検査、残留農薬検査、遺伝子組み換え検査等)、マイクロ化学合成(テーラーメイド医療創薬、ペプチド合成等)の市場をターゲットとして、今後、実用的なマイクロ化学チップ分析システム(マイクロ化学チップとSELFOC マイクロレンズを用いた熱レンズ分光分析装置より構成)の開発を進めていく。
参考文献
- 1) W. P. Ambrose, P. M. Goodwin, J. H. Jett, A. V. Orden, J. H. Werner and R. A. Keller: "Single molecule fluorescence spectroscopy at ambient temperature," Chem. Rev., 99, (1999) 2929-2956.
- 2) T. Kitamori, M. Tokeshi, K. Sato and A. Hibara: "Thermal lens microscopy and microchip chemistry," Anal. Chem., 76, (2004) 52A-60A.
※NTR News第28号 (2005年8月1日発行) に掲載

