趣味的民俗学ノオト

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小生の若い頃、宮本常一氏の著作に触れ、全くのど素人が、「民俗学」の真似事を始め、氏を師匠と呼ぶようになった。自称弟子の誕生である。で、その師匠が、フィールドワーク(もしくは「旅」)に対して並々ならぬ情熱を傾けた人であった。そこで師匠に倣って、今号からしばらく小生のフィールドワーク(そんな仰々しいものではない)で得た見聞(これまたそんな大それた物ではない)を徒然なるままに書いてみたいと思う。

第四回 盆踊りのある風景 〜西馬音内盆踊りの起源についての二・三の考察?〜

その盆踊りが行われる場所は、秋田県南部の穀倉地帯に位置する羽後町西馬音内。西馬音内自体には、鉄道は無く国道も通っていない(羽後町には国道はあります)。最初に彼の地を訪れたのは、二十代も前半の頃ではなかっただろうか。路線パスに揺られ、田園風景の中に浮かぶ西馬音内の町に入った。パスを降りると、まだ明るいうちに遠くでかがり灯がたかれ太鼓の音がする。誘われるままに盆踊りの行われる通りに足を向ける。夏の西日がゆっくりと傾き始める頃には、三々五々少年少女達が踊りの輪を創り始める。中には今年がデビューではないかと思える小さな踊り手さんもいる。徐々にお喋子が大きくなり、やがて少しずつ踊り手の年齢が上がり始める。ゆっくりと闇が訪れると、北国の小さな町に幻灯のような光景が広がっていく。

その幻灯のような光景の中で、先ず衣装に心奪われた。男は「彦三頭巾」と呼ばれる黒い覆面をつけ、顔が全く見えない。女は「編笠」を深く被り、見えるのは笠を結わえる顎の紐だけ。女の衣装は派手な絞りの浴衣かバッチワークを思わせる「端縫い衣装」。この端縫い衣装は東北のどの祭りでも見たことのない独特のものであった。この独特の衣装に代表される盆踊りの起源は、あまりはっきりしていない。盆踊りに関する記録は皆無なのだそうだ。なので、全てが口碑によるものだと言う。その口碑によると、正応年間(1288〜1298)の頃、豊作祈願に踊られていたものに、西馬音内城主の小野寺氏(戦国末期に山形の大大名であった最上氏に滅ぽされている)の旧臣が、かつての主を慕って踊り始めたものとが合流したものだと言う。

また、七百年ほど前に源規上人が蔵王権現(現在の御嶽神社)境内で豊年踊りとして踊らせたものに、西馬音内城主であった小野寺氏の遺臣達が、かつての城主の霊を慰めるために旧盆に踊ったものとが合流したとも言われている。そのどちらもが、豊作への願いとかつての主を偲ぶ思いとが合流したものである。しかし、闇に浮かぶその盆踊りのスタイルは、幻想的と言うよりは、むしろ異様とも取れる。まるで、黄泉の国より現れ出でたる、亡者のごときものである。そのためか、この盆踊りを「亡者踊り」とも呼ぶ。

一方、地元の人の話では、江戸期秋田県の大部分を領した佐竹家のとある殿様が大の女好きで、領内の農村で好みの女子を見つけるとお城に連れて帰るらしく、西馬音内の人々は恐れをなして、盆踊りの際に顔を隠して踊ったという話を聞くことが出来た。この盆踊りの起源であるかつての主を偲ぶ踊りが顔を隠して黙々と踊るスタイルを形作ったと考えられているのとは異なり、近世に入ってから好色な殿様への対抗策として出来上がったスタイルという伝承も何となくうなづける。真偽はともかく、こうした裏のお話が採取できるのもフィールドワークの醍醐味でもある。しかし、男は「彦三頭巾」を女は「編笠」をし、顔を隠すことで、男はより男に女はより女を強調されるように感じた。手のしなり具合や所作、足を地面から離さず踊る形、男と女の動きの対比から、より女性の色香を闇の中で強烈に感じた。これでは、殿様が好色でなくともかなりの人数が、お城の奥深くに消えていったのでは(?)と感じたのを今でも憶えている。

※西馬音内盆踊り  
8月16〜18日に羽後町西馬音内にて開催。桟敷なども設けられる。  
詳しくは、羽後町役場へ(Tel. 0183-62-2111)

<参考文献>西馬音内盆踊りの記録 第二版(1983)…西馬音内盆踊り保存会編集

NTR News第16号 (2001年8月1日発行) に掲載

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