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今回は日本最南端の有人島でのフィールドワーク(?)です。その名も「波照間島(ハテルマジマ)」。でも暑かったですよ、ここは。

第五回 南へ・・・ 〜あるいは、泡盛呑んで水平線の彼方まで昼寝をしよう〜

ある時期、日本最南端の有人島である波照間島へ行きたくて行きたくてしょうがなかった。島名の由来は、多くのガイドブックに「果てのウルマ(=最果ての珊瑚礁の意)」がなまったモノと解説されているが、そうでもないふしがある。波照間は元、パトロー島と呼ばれていたことが文献に残っており、島の遺跡から出土した台湾スタイルの土器や島の言葉とインドネシア語のイントネーションの類似点から日本語固有の地名ではなく、外来語の入り混じった地名ではないかとする説もある。でも、島に行ってみると、やはり「最果ての珊瑚礁」という意味の方がしっくりとくる。

そして、最も魅力を感じているのは、「南波照間(パイハテルマ)」に関する物語である。その昔、波照間は沖縄本島の王府より統治を受けていた。もちろん、税金と称して搾取を受けていた訳である。ある年、波照間は不作であった。当然税金や貢物を出す余裕など無い。そこで、島の人々は全員で島を出て行くことを決意する。やがて、本島から役人達(当時の税務署職員か?)が到着すると、島の人々が大歓迎。宴会で役人達が、すっかり酔わされて寝込んでしまったところ、島の人々は役人達の船に乗り込み、波照間のさらに南にあると信じられている「南波照間」を目指して船出したと云うことである。その後、船出した人達は、誰も戻らなかった。もちろん、波照間の南に島など無い。作家の司馬遼太郎氏は、彼等が自殺を望んだのではないかと書いている。中世の本土(本州)では、普堕落渡海(フダラクドカイ)という宗教的自殺が流行した。浄土に行くことを望む行者が、熊野の浜から櫓の無い小船に乗り海へ漕ぎ出していくと云うアレである。波照間の人々にとって、普堕落渡海の目的地が南波照間ではないのかと云うのである。また、氏はこうも書いている。波照間の気の遠くなる様な南にフィリピンのルソン島がある。波照間の人々は、遠い昔に自分達の祖先(祖先=南方からの海洋漁労民俗だとして)が来た路をたどろうとしたのではないかと。彼等の中にその古い記憶が残っており、その記憶とルートをたどり南へ船出をしたのではないかと・・・。とするとこの物語は、日本人が何処から来たのかという民俗学的な真理に触れるものではないか。

個人的に思うに、民俗学の使命とは「人が何処から来て、何処へ行こうとしているのか」を明らかにすることだと考えている。この物語は、波照間の人々が何処から来て、何処へ行こうとしたかを我々に示唆してくれている様に思える。「ここではない何処かへ」と云う願望ももちろんあっただろう。島という閉鎖的な空間から南への願望は果てしなく広がったかもしれない。「遠野物語」に収められている「マヨヒガ」や丹後地方に残る「浦島伝説」の「龍宮城」等、これらを閉鎖的な空間からの憧憬の産物と考えると、「南波照間」もあるいは、日本各地に散在するそれらの物語と不思議な一致を見ることが出来るのかもしれない。そんなことをつらつらと思い浮かべながら、南東風(カーチーバイ)に吹かれて波照間港の防波堤の上で泡波(波照間特産の泡盛→美味い!)片手に昼寝をしたのを、ふと思い出した。

<参考文献>
谷川健一(1997) 日本の地名 第四章 固有地名と外来地名 1.「波照間」の地名の由来、岩波新書、p197-210.
司馬遼太郎(1975) 街道をゆく 沖縄・先島への道 那覇へ、朝日新聞社、p7-18.

NTR News第17号 (2001年12月1日発行) に掲載

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