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今回は急遽予定を変更して、今夏に現地を訪れ、その灯火が消えそうに感じたある郷土玩具について書いてみる。こんなところにも一つ絶滅するかもしれない(?)郷土玩具があることを刻んでみたい(当初予定していた埋蔵金伝説は次回以降掲載予定)。

第八回 遥か南からの記憶 〜秋田県横手市の絶滅危惧郷土玩具現地緊急レポート〜

今夏、チャンスがあり、以前から手に入れておきたかった秋田県南部の街「横手」の郷土玩具である「中山人形(ナカヤマニンギョウ)」を探しにやってきた。

先ず、蝉時雨の中横手城に向かう。横手城の天守閣には、横手の歴史や郷土に関する資料が展示されているが、その中に今回お目当ての「中山人形」も展示されている。展示品は、代表的な十二支を象った土人形(土鈴)であり、その中でも昭和54年の年賀切手のデザインとなった羊の人形が目を引く。柔らかな曲線のみで構成された人形は、私がこれまで触れてきた他地方の土人形をしのぐ完成度を感じた。めりはりのついたはっきりとした色使いとふっくらとした体躯、羊の眼差しはどこか東北の厳しい自然を受け止めてきたようにも見える。その他にコミカルな申や今年の午、戌などは歌舞伎役者を思わせる彩色が美しく、期待通りの人形にときめいた。

人形の製作は横手市内の「樋渡人形店」のみ。人形の置いてある市内の民芸品店を何軒か尋ねてみた。十二支以外の人形を扱っている店は少なく、干支の人形も一部しか揃っていない状況であった。思わず人形存続に危機感を感じた。が、最後に訪れた横手市鍛治町3-26の「石田商店(Tel.32-0312)」では、お目当ての人形を多数見ることが出来た。天神様・梵天(横手のお祭り)・雛人形等々(その種類は100を下らない)、十二支とは異なる人形に暫し目を奪われる。丸みを帯びたそれぞれの人形には、横手あるいは秋田を代表する風格がある。

この「中山人形」、実は知られざる遥か南の土地との因縁がある。江戸末期、鹿児島出水郡野田村出身の野田宇吉が肥前(現佐賀県)領主の鍋島家の庇護の下、陶工として腕を振るっていた。その後、盛岡にやって来て南部氏の保護の下、「山影焼」と称する磁器を焼いた。しかし、天保の飢饉の際に被害のひどい南部領を出て、磁器作製に適した土を求めて津軽を経て、横手市南方に位置する湯沢市付近を領する岩崎藩内(現平鹿郡平鹿町吉田字中山)に定住した。その後、安政期の湯沢は佐竹氏領となり、その佐竹氏の援助で「松岡焼」を始める。そして月日が流れ、野田宇吉の長子の嫁(ヨシ)により、明治七年に中山人形が作り出された。ヨシは義父である野田宇吉に粘土細工を習い、当時の民芸品である「横手押絵」や「串姉コ」からヒントを得て人形制作を思い立ったと言う。現在は横手市内で制作されているが、人形には遥か南の土地からの記憶を感じさせる匂いが残っているように思われた。残念ながら宇吉が何故東北に来ることになったのか?ヨシは秋田の人か?などの疑問をまだ調べられていないが、北東北の町まで遥か南からの記憶が息づいているように感じられた。

最後に筆者は、十二支のセットと秋田ならではの魚である「鰰(ハタハタ)」の人形を購入した。ぷっくりと膨らんだ腹には「ぶりこ(鰰の卵を秋田ではこう呼ぶ)」が詰まっているようで、豊穣の願いにつながっているのだと素直に思えてしまう。個人的にはこの「鰰」、中山人形の傑作と信じて疑わない。この傑作を後世に確実に伝える方法は無いのだろうか?この人形の将来を考える時、けして楽観は出来ないと思う。遥か南からの記憶を持つ横手の郷土玩具である「中山人形」。後世、「博物館の展示品だけが実物」ということの無いようにと、願ってやまない。

<参考文献>
伊沢慶治(1980):横手の歴史、東洋書院.
横手市商業観光課・横手市観光協会(2001):TEKU-TEKU YOKOTE この1冊があなたを横手歩きの名人に.

NTR News第20号 (2002年12月10日発行) に掲載

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