趣味的民俗学ノオト
前回予定を変更してお休みしていました埋蔵金シリーズ(?)の最終回は、長者伝説のその後について書いてみたいと思う。やっぱりあるよ、この埋蔵金は・・・。
第九回 本当の長者伝説を追え! 〜その参 チョウジャデンセツハナゾマタナゾ?ツチヲホルヨリ、シリョウヲホレ!〜
旦富利長者の死後、時の帝に嫁いでいた長者の娘さん(吉祥姫)は長者の弔いをすべく都から奥州の地へ下り、全てが済むと再び都へ戻って行った。さあ、そこで問題が持ちあがる。その問題とは、長者の家の跡取問題である。長者の後継者は、先稿で述べたように一人娘だけであった。それに嫁ぎ先が天皇家では、幾らなんでも跡取がいないから娘を返せとは言えない。しかし、これだけの身代を潰すわけにもいかない。もちろん、長者には日頃より信頼を寄せる部下が居なかった訳ではない。でも、長者自身が後継者を指名しておかなかったのでは、家中が乱れるのも無理は無い。特に長者の家の家臣団中ベスト4の「目」・「鼻カギ」・「手長」・「足長」の四名は、それぞれが長者の家の実権を握りたいので暗躍する。あれやこれや密約や裏のやり取りをしているうちに収集がつかなくなり、跡取不在のまま家臣団も死に絶えた。その後、長者の家は絶えたが、財宝は残ったはずである。家臣団が亡くなった後に、財宝の収められた蔵を改めると噂の財宝のほとんどは見当たらなかったと言う。そこで、長者の埋蔵金伝説が持ち上がる。もちろん長者は浪費家ではなかった。長者は若い頃から直人と呼ばれるほど正直で、徳のある人物と慕われていたようである。才覚もあり、奥州の田舎から都へ娘を入台させる実力もある人物である。そして、長者の家で用いる米を洗ったため、川が白くにごったために秋田県北部を流れる川の名が「米白川(現在は米代川)」となったほどの家である。無い無いと言ってみても首を傾げたくなるのは人情である。そうでなければ、その後の家臣団の跡取を巡る争いは解せないではないか。金ではないにしろ、何処かに長者の集めた財宝が隠されているに違いない。そう考えたのは、もちろん筆者だけではない。先ずその先駆者は、先稿に示した長者の孫であった。孫までも夢中にさせる財宝とは何だったのだろうか?やはり金なのか?
時代は下がって明治も半ば、当時の辻相撲の関取を中心に旦富利長者の埋蔵した砂金を手に入れたと言う話が伝わっている。これは旦富利長者生前、娘の安否を気遣いもしもの時に掘り出して使うように指示して埋めたものと言われている。埋めた場所はその名も「天狗峡」。しかし今となっては、「天狗峡」と呼ばれる場所が何処だったかも不明である。幾つかの推定場所があるにはあるが、どれも「帯に短し襷に長し」と言った具合らしい。筆者も推定場所である秋田県〜岩手県にかけての地域を巡ってみたが、何処にもそれらしい痕跡はない(当たり前ですが・・・)。
ほんの真似事であるが筆者の埋蔵金探査の際、参考にしている埋蔵金伝説のバイブルとも言える畠山清行氏の「日本の埋蔵金 上下新」には、埋蔵金を探す上で最も大事な心得を次の様に書いてある。
「土を掘るより、資料を掘れ」
筆者などは、資料より噂があれば上記の様に現地に行きたくなるので、埋蔵金を探すことなど到底覚束ないだろう。それでも、現地での資料収集や聞き込み(のようなモノ)は欠かさない。十数年前に現地で聞いた話では、「長者の埋蔵金をまだ探している年配の人がいる」という噂を聞いたことがある(噂の真偽は定かではないが・・・)。その噂を聞いた時に筆者の胸中に去来した熱い思いを今も忘れない。単車を止めた、県道沿いの小さな雑貨屋の前でアンパンをかじっていた時の話であった。長者の死後の家臣団の争い、孫の埋蔵金探索、明治期の砂金伝説、そして現代まで1500年も連綿と続く埋蔵金探査の行方・・・。これほどドラマチックに人を魅了し続ける埋蔵金伝説も他には無いかもしれない。そして、あの噂を耳にして以来、現地を訪れる度に浮き足立ち、居ても立っても入られなくなる。こんな思いを他で味わえるだろうか。そんなこんなで、今年もまた現地を訪れる予定である。
<参考文献>畠山清行(1973):日本の埋蔵金 上巻、番町書房
※NTR News第21号 (2003年4月10日発行) に掲載

