趣味的民俗学ノオト
第十一回 盛岡にて −紫根染(シコンゾメ)のこと−
しばらくの間、盛岡で暮らしたことがあった。暮らしたと言っても、ほんの数ヶ月程度である。これといって、用事があったわけではなかったが、単車が縁で知り合った医学生のアパートに転がり込み、盛岡に落ち着くことになった。学生の頃だったので、時間だけは溢れるほどあった(と思う)。医大の近くのアパートからは、街を南北に流れる北上川が近かった。その北上川のほとりに「光源社(コウゲンシャ)(Tel.0196-22-2894)」があった。光源社は宮沢賢治の「注文の多い料理店」を出版したことでしられる老舗だ。現在は、国内外の工芸品を扱うお店になっている。店の奥には、喫茶店が併設されており、午前中はそこで本を読むのが当時の日課となった。午後からは、古本屋をひやかしたり市内の名所旧跡を訪ね歩く。その時よく通ったのが、紺屋町界隈であった。紺屋町界隈には、南部鉄器を扱う店や老舗の荒物屋が軒を連ねている。その中で特に念入りにひやかしていたのが、「草紫堂(ソウシドウ)(Tel.0196-22-6668)」であった。「草紫堂」は、紫根染の製造販売を生業とするお店である。紫根染とは、南部紫とも呼ばれる染色法で、元来山野に自生する紫草の根から染料を得た。古来より紫色は、高貴な色とされ、その染色法も珍重された。近世においては、「京紫」や「江戸紫」と称した紫染めが流行するなど、時代が下がるにつれてその需要は拡大した。一部では紫草の栽培が成されていたと言われるが、南部藩(現岩手県付近)では近世を通じて十分な量を確保するには至らなかったらしい。加えて、南部領における天然の紫草の評価が高かったため、藩では紫草の流通を制限し専売制をひいた。しかし、時代が移り開国と同時に海外からの安価な染料の導入により、紫根染は急激に衰退していくことになる。大正期に入ると、第一次大戦の影響もあって、海外からの染料が一時的に入手困難になった。加えて、国産品奨励運動の高まりを受けて、再び紫根染が注目される。しかし、既に盛岡における紫根染の技法は廃れ、染色法を復活させるためにわざわざ秋田県から職人を招き復興に努めたようである。この頃、一人の天才が現れる。京都に染色技法の習得のために遊学していた「藤田謙」氏である。遊学先の京都から呼び戻された藤田氏は、早速技法の復活に取り掛かった。数年の努力の結果、南部における紫根染の復活を成し遂げ、昭和八年五月には現在地に「草紫堂」をオープンさせるに至った。宮沢賢治も紫根染の復活に興味があったと見え、「紫根染のこと」と題する作品がある(この作品は、昭和十年三月十二日の岩手日報に遺稿として掲載された)。作品は賢治らしい物語で、紫根染復興のために、その技法を山男からレクチャーを受けるといった内容である。当時の一般的な見方として、山男にレクチャーを受けなければ、紫根染を復活できないほど廃れていたということなのかもしれない。
後年、「草紫堂」にて憧れの南部紫の袱紗を購入することができた。南部紫と呼ぶに相応しい、赤紫色に染められた袱紗は、何とも言いがたい神々しさすら感じられる(ちょっと大袈裟)。時折、桐の箱に収められた袱紗を取り出して見返すことがある。最近では、染めの具合により変わっている模様の節々にまで視線が向くようになった。藤田氏の技の復活にかけた時間が、その模様一つ一つにこめられているように感じられる。こんな風に時が経てからも先人の技術に触れることもあるのだと、今更ながら感じられる。
<参考文献>
盛岡市先人記念館(1992):−復興から創造へ− 藤田謙 南部紫根染,盛岡市先人記念館企画展パンフレット.
吉岡幸雄(2002):日本の色を染める, 岩波新書.
宮沢賢治(1995):新校本宮沢賢治全集 十巻, 筑摩書房.
※NTR News第23号 (2003年12月15日発行) に掲載

