趣味的民俗学ノオト
埋蔵金を見つけるより、砂金を探せとばかりに、春から秋にかけて砂金を探しまわったことがありました。結局見つかったのは・・・。筆者敬白
第十三回 やっぱり金でしょ、金! −青春的砂金探索顛末記−
ある時期、取り付かれたように粗末な道具を持って、砂金探しをしたことがあった。もちろん砂金を闇雲に探してもしょうがないので、先ず図書館の古い文献や郷土史関連の書籍から金山(金鉱)の情報を抽出する。しかし、正確な文献よりも、伝承や口碑を掘り起こすため、中々めぼしい情報に到達しない。目星をつけると、次に金鉱の正確な位置を把握するために、鉱床関連の専門的な文献を漁る。そして、文献に記された地質図や走行傾斜等のデータから金を含む層序の胚胎を推理する。そして、地形図の上に金鉱床の位置をプロットし、周辺の沢を丹念に歩き、砂金を探すのである。もちろん、専門的な知識と異なり、夢と野心により曇った目で探すのだから、楽しいだけで中々砂金にお目にかかれない。時に「砂金だぁ!」と光り輝く河床目掛けて駆け寄ると、黄鉄鉱や雲母の風化した結晶が集積された場所だったり・・・と、何度も辛酸(とまではいきませんが)をなめてきた。
しかし、来るべき日が筆者にも訪れた。忘れもしない、真夏の太陽が照りつける早池峰山系に属する小さな沢でのことだった。早池峰山は女神の山である。女性が登ると山が荒れるが、男性は喜ばれると言う。きっと、女神様が導いてくれると言う訳の分からない確信に導かれて、この沢までやって来た。北上山系は、近世までは産金地帯でもあった。彼の平泉の奥州藤原三代の権力基盤を支えたのも、北上の砂金だとも言われている。その上、この沢の上流には、戦時中に採掘されていた小さな含金鉱脈を含む鉱山(と言っても直径2m程度の坑道が2〜3m程度埋まらずに残っているだけ)があり、その坑道から運び出された鉱石の残りが、坑道から沢まで繋がっている・・・。条件は全て揃っている。否が応でも、砂金への期待は高まる。逸る心を抑え、何時もの様にリュックから道具を取り出す。毎度のことながら、ここで沢目がけて一目散に走り出す等してはいけない。躓いて、転んで、思わぬ怪我をするかもしれない。本当に慎重に、ゆっくりと沢まで歩く。この時間のなんと長いことか。何時になったらたどり着くのかと思えるほど、長く感じる。そして、沢を目の前にして、一度深呼吸をする。落ち着くどころか、目が血走ってくるのが分かる。ゆっくりと沢の水に足を浸し、比重差により金と砂粒を分ける分級器をゆっくりと回す。ゆっくりと、本当にゆっくりと・・・。やがて、今まで見たことのない輝きが一粒皿の上に残っているのに気づく。もちろん、砂金なんて博物館の展示試料でしか見たことが無いのだから、それが砂金なのかどうかすぐには分からない。あれほど欲していたにもかかわらず、一瞥すると冷静になった。それまでの砂金探査の過程が走馬灯のように頭を駆け巡り、不思議なほど穏やかな気持ちになった。周囲の空気が一瞬ひんやりと感じ、物音がしなくなった。これが一般的な砂金を見つけた時の心持とは言えないが、不思議な体験だった。
で、その黄金色の粒が金だったかどうかは、実は分からず仕舞いであった。それというのも、研究室に戻って、EPMAで分析してみようかと考えた。が、熱によって硬化する樹脂に埋め込み、固めてしまった。学生時代は、机の周囲に置いて実験や解析に疲れたら、時折眺めては遠く早池峰山に思いを馳せた。そうこうしているうちに卒業し就職、あの阪神大震災で当時住んでいた社員寮が倒壊し、黄金色の粒も瓦礫と一緒に埋もれてしまった。多分、あの沢にはもう二度と行かないだろうし(かなり不便なところだった)、砂金探しもやらないと思うので、今となってはちょっと惜しい気もする。今でも、あの日沢から見上げた青空を思い出すことがある。何の変哲も無い青空ではあったが、あの空を越える風景に出会ったことが未だ無い。結局見つかったのは、金ではなく思い出だけだった。それでも、あの日の事を思い出すと、早池峰山の女神様にそっと手を合わしている。
<紹介文献>
菊地照雄(1989):山深き遠野の里の物語せよ、梟社
※NTR News第25号 (2004年8月1日発行) に掲載

