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「なまはげ」という行事をご存知の方も多いと思う。しかし、「なまはげ」をご存知の方も、その起源や伝承について知識を持たれている方は少ないと思う。そこで、この「なまはげ」を今回と次回に渡り取り上げてみたいと思う。地元では、「なまはげ」無くして夜も日も明けぬ、なんて人もちらほら・・・。筆者敬白

第二十回 No Namahage, No Life.(前編)

「なまはげ」、奇習とさえ言われるこの年中行事は、秋田県男鹿半島を中心に行われている年末(あるいは小正月)の来訪神儀礼である。来訪神儀礼とは、豊作や豊漁、あるいは健康や富等々を授ける神が外界からやって来るのを丁寧にもてなす行事を言う。この来訪神儀礼は、「なまはげ」に限らず全国に認められる。例えば、福井県の「アマメン」や沖縄は八重山の「アカマタ・クロマタ」等がそれにあたるとされる。

この行事を江戸期に記した書物がある。このコーナーで度々引用している紀行家である菅江真澄の「牡鹿の寒かぜ」である。この書物にはイラストも添えられており当時の「なまはげ」が手に取るように分かる。その他、民俗学の巨匠柳田邦夫が「小正月の来訪者」として紹介しているが、やはりこの行事を全国的に広めたのは、吉田三郎の著書「男鹿寒風山麓農民手記(1935)」であろう。この書を記した吉田氏は、日本の民俗学草創期を支えた三本柱の一人である渋沢敬三氏に見出された在地の民俗学者である(後二本は、柳田と折口でしょう)。渋沢氏は、明治の財界人である渋沢栄一の孫であり、自身大蔵大臣や第一勧業銀行の頭取を務めた異色の民俗学者であった。その渋沢氏が主催したアチックミュージアムから出版されたのが吉田氏の著書である。筆者はこの書籍を阪神大震災で失ったため、ここに正確に引用することは出来ないが、土地の人が自らの行事を淡々と、そして臨場感あふれる筆致で書き留めてくれたことを覚えている。

それでは、いよいよ本題に入るとする。「なまはげ」の語源は、「生身剥ぎ」とされている。寒さの厳しい男鹿半島の冬の間、囲炉裏端に座り暖をとり続けている(=怠けている)と手足に「火形」や「火斑」と呼ばれる軽い火傷が生じる。この「火形」を皮膚から剥がすことで、日頃の生活態度を戒めるのが行事の主旨である。したがって、「火形」の出来た皮膚を剥がすことから、「生身剥ぎ」・・・「なまみはぎ」・・・「なまはげ」となったらしい。一部の地域では、小正月に行われる場合もある(元々は旧暦の正月前後に行われていた)が、現在は年末の大晦日に行われる地域が大部分である。行事そのものは、次のように行われる。地域の若者(最近は地方の高齢化が進み、必ずしも若者ではない)が、「なまはげ」の面と蓑をまとい、各家々を「泣く子はいねが、親の言うこと聞かねガキはいねが!」と叫んで登場する。もちろん子供だけがターゲットにされるわけではない。「こごの家の初嫁(初婿)は朝起ぎするが、しねが!」と大人も対象となる。一家の主は、「なまはげ」の所業に対し、ひたすら機嫌を取り成す。けして、逆切れしてはいけない。なんと言っても相手は神様である。そんなことをしたら大変なことになる(と思う)。さらに、酒肴で丁寧にもてなし、「なまはげ」の言葉を全て否定する(そんな子はいない・そんな嫁はいない等々)。そうすると、「なまはげ」は納得して帰って行く(「なまはげ」は何時でも神社の大木の中にいるから、悪い子供や嫁・婿がいたら呼んでくれたらすぐにやってくると応える。アフターサービス満点である)。多少の地域差はあるが、これが「なまはげ」行事の全貌である。かなり、迫力があり、子供ではこの迫力に耐えられない。子供のいる家では、一種のパニックに陥る。かなりすごい行事である。しかし、全国的に有名なこの「なまはげ」を体験した人は少ないと思う。観光用の「なまはげ」は別として、やはり男鹿半島固有の行事であり、そう簡単には体験出来ないのが実情である。筆者もまだ大晦日の行事を体験したことは無い。準備やイベントとしては体験済みだが、やはり本物を体験したいと思っている。大晦に他人の家に上がりこんでみるぐらいのずうずうしさが無いと民俗学調査なんて出来ないとは日々思っているのですが・・・。次回は、「なまはげ」の伝承を紹介します。

<参考文献>
稲雄次(2005):ナマハゲ−新版−, 民俗選書Vol.15, 秋田文化出版.
菅江真澄(2002):菅江真澄遊覧機6, 平凡社.

NTR News第32号 (2007年1月4日発行) に掲載

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