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今回はお約束どおり、「なまはげ」の伝承に触れます。この伝承に触れると、きっと「なまはげ」に触れてみたくなりますよ。だって、筆者もその一人ですから。筆者敬白

第二十一回 No Namahage, No Life.(後編)

と言うことで、前回の続き・・・。「なまはげ」の始まりとされる伝承には、大きく分けて以下の三種類がある。

@漢の武帝(古代中国の王様)来訪説

A異邦人漂着説

B修験者との交流説

先ずは、@の説。その昔(日本では、邪馬台国より以前の時代)、漢の武帝が白鹿に跨って男鹿に飛来した。その時、五匹の蝙蝠(こうもり)を従えていた。この蝙蝠が鬼となり、里人に危害を加えた(生身を剥ぎ、人肉を食べたとされる)。これに困った里人は、鬼たちに賭けを提案する。その賭けとは、今も男鹿半島に残る「五社堂」の石段造営を一晩で行うと言うものであった。一晩で千段の石段を作れなかった場合は、鬼達が里から出て行くと・・・。鬼達は、同じ男鹿半島の中央に位置する「寒風山」から石を運び石段を作り始めた(寒風石は今でも石材として使われている)。しかし、早い!里人たちは脅威を感じ、夜明け前に一計を案じた。その策とは、物真似上手の里人に鶏の鳴き声をさせ夜明けを偽造する(全国に同様の話が散見される)と言うものであった。そうとは知らず、鬼達は石段を九九九段造ったところで里を去った。なので、「五社堂」の位置する付近の集落では、鶏を飼う家が今も無いとも言う。後に、この出来事を起源として「なまはげ」行事を続けてきた。よほど、すごい体験だったに違いない(因みに、現在「五社堂」の石段は千段以上ある)。

次にAの説。海流の関係や日本海に突き出た地形上の特徴もあり、男鹿には様々な海外からの漂着者がたどり着いた。この中の一人(あるいは複数)が、半島に住み着き里人と友好的に、あるいはその逆の付き合いが生じた。友好的な伝説としては、漂着者の一人が伝えたロープや滑車を用いて「五社堂」の石段を造り上げたと言う。そして、土地の寺男として暮らし、年に一度大晦日だけ骨休みをもらい、里で餅をもらって食べたと言う事である。また、後者の例では、漂着した異邦人が半島に住み着き、里人に危害を加え、何時しか全ての異邦人がいなくなった後に、里人達が後世にこの出来事を伝えた。これらの漂着者に関係する物語が、「なまはげ」の起源になったのだと言う(確かに、なまはげの面は、赤と青であるため、日本人の肌の色とは考えにくい)。

最後にBの説。男鹿半島にある本山あるいは真山を中心とする山岳修験道との交流から生まれたとする説。修験者は、山間の修行時に見かけると、その形相と着ている衣類から、里人とは区別されていただろう。思わず、「なまはげ」の起源と考えても不思議ではないだろう。

これらの説の中で、筆者はやはりAの異邦人漂着説に興味がある。恐らく、幾人もの漂着者がこの半島にたどり着いたのだろう。現在、男鹿半島を訪れると、外周を巡る立派な道路を車で走ることになる。しかし、昭和三十年代までは、半島にも関わらず隣の村落や秋田・能代といった地域との交流は船であったと言う。外界と遮断されたこの土地に、外国からの漂着者との関わりの証がこの「なまはげ」だとすると、言い知れない浪漫が漂うというのは、いささか言いすぎだろうか。

現状の「なまはげ」はどうだろうか?「なまはげ」の面は昭和後半まで紙あるいは(ざる)に紙を張り合わせたものであったという。今、男鹿に行くと立派な木彫りの面が売られているが、これは観光用に作られているものだそうだ。そして、「なまはげ柴燈(せど)まつり」が2月中旬に行われている。しかし、本来このお祭りと「なまはげ」とは関係が無く、何時の頃からか「柴燈まつり」に登場する「鬼」と「なまはげ」を混同したものだという。このように「なまはげ」が二十一世紀も強かに生き続けているのは、やはり男鹿の地で生き残りをかけた戦いを選んだ異邦人達を起源とすると納得できると考えるのは筆者だけではあるまい。やはり、この半島ではNo NAMAHAGE, No Life.だ。

<参考文献>
稲雄次(2005):ナマハゲ−新版−, 民俗選書Vol.15, 秋田文化出版.

NTR News第33号 (2007年5月2日発行) に掲載

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