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何故、弘文天皇は、壬申の乱後に房総半島(上総(かずさ)国)を目指したのだろうか。今回は、この謎にスポットを当ててみたい。筆者敬白

第三十三回 流亡記 −弘文天皇(こうぶんてんのう)房総半島逃亡説序説 (3)−

先ず、思い出して頂きたいのは、「弘文天皇」の父親である。その人こそ、古代史上最大の政治改革とされる「大化の改新」をスタートさせた「天智天皇(中大兄皇子(なかのおおえのおうじ))」である。そして、この改革は、中大兄皇子一人で始めた訳ではなく、頼りになる相棒がいたのである。その相棒こそ、「中臣鎌足(なかとみのかまたり)」その人であった。後に「藤原(俗に四大姓氏と言われる「源平藤橘」の一つ)」を賜姓(ちょうせい)され、平安時代以降の摂関政治、あるいは日本史全体に大きく名を残す一族の始祖となった人物である。因みに、四大姓氏の中で「藤原」以外の(かばね)は、全て皇族が臣籍降下する際に賜姓されることから、元来の「藤原」姓のレア度をご理解頂けるだろう。その子孫は、先の大戦の終結に至るまで、日本史に多くの影響を及ぼすことになる。平安時代には、「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」と詠み、藤原氏の全盛時代を築きあげた「藤原道長」や、その子で10円硬貨の絵柄に刻まれた平等院鳳凰堂の建立で名高い「藤原頼道」も彼の子孫である。中世に入ると、土佐の戦国公家大名である「土佐一条家」や、豊臣秀吉の関白就任を可能にするため、彼を猶子(ゆうし)とした「近衛前久(このえさきひさ)」も同様である。そして、幕末から近代にかけては、幕末の攘夷派公家として著名であり、律令制度最後の太政大臣となる「三条実美(さんじょうさねとみ)」や、太平洋戦争前夜の首相である「近衛文麿(このえふみまろ)」と、鎌足の子孫は多岐に渡る。藤原氏は、中世以降に藤原四家(南家(なんけ)北家(ほっけ)式家(しきけ)京家(きょうけ))の一つである北家の嫡流にあたる五つの家(近衛(このえ)鷹司(たかつかさ)一条(いちじょう)二条(にじょう))・九条(くじょう))を五摂家(こせっけ)として、朝廷内での摂政・関白職を含む高位高官を独占してきた(因みに、「三条家」は五摂家に次ぐ家格とされる「清華家(せいがけ)」に含まれる)。その他の藤原氏庶流は、中央政権の隅々に、あるいは地方においては武家として、その勢力拡大に努めた子孫も多く、古代から現代における日本の政治・経済・文化・外交等々への影響は、はかり知れない。「中臣鎌足」とは、そんな華麗なる一族の祖先であり、それが故に日本史上とてつもないビッグネームなのである。

その「中臣鎌足」だが、上総の地と深い繋がりを持つと地元では言われている。弘文天皇を祭るとされる「白山神社」から、西北西に数kmを隔てた木更津市東部に「矢那(やな)」という地域がある。地元では、兵庫の「丹波(たんば)栗」や岐阜の「恵那(えな)栗」にも負けずとも劣らない「矢那栗」と呼ばれる風味豊かな栗が少量生産され、コアなファンを形成している。筆者もこの栗のファンなので、季節を迎えるとばしば矢那を訪れる。すると、矢那周辺にある小中学校名や交差点の地名表示が車窓から見える。それが「鎌足」を冠しているのだ。この地は、明治における木更津市との合併前までは「鎌足村」と称し、この地近くに今も存在する観音堂の縁起(えんぎ)に「中臣鎌足」の生誕地と記されている(他に、彼の生誕地としては、大和(やまと)国や常陸(ひたち)国だとする説もある)。どうやら「中臣鎌足」、あるいはその一族は、房総半島と何らかの因縁があるようだ。中臣一族の影響力がこの地に及んでいるからこそ、一族の始祖である「中臣鎌足」の出生地伝承がこの地に生じたとも考えられる。そうだとすると、「弘文天皇」が房総半島を目指した理由が明確になる。弘文天皇は、父の政治改革の相棒を中心とする「中臣一族」と親交があった。それは、彼の(きさき)耳面刀自媛(みみもとじのひめ))が「中臣鎌足」の娘であることからも肯ける。つまり、弘文天皇は、「父の相棒」の力を頼り、房総半島を目指したのだ。しかし、如何に勢いのある「中臣一族」であろうと、既に世の流れは壬申の乱の勝者である「天武天皇(大海人皇子)」側に大きく傾いている。「弘文天皇」は、大挙して押し寄せた征討軍を前にして、成す術が無かったであろう。あるいは、地の利を活かしゲリラ戦を仕掛け、征討軍を混乱させた程度のことがあったかもしれないが、それも今となっては推測の域を出ない・・・。既にこの国には、「弘文天皇」の居場所は無かったのだ。そのためだろうか、「弘文天皇」伝説は、この地より先には認められない。

NTR News第45号 (2011年5月6日発行) に掲載

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